勇敢な戦国武将たち

本能寺の変で謀反を起こした明智光秀

明智光秀というと、本能寺の変を引き起こした謀反人で、数日後に羽柴秀吉と山崎の戦を繰り広げ討ち死にしました。

天下を数日で手放す羽目になってしまったため「三日天下」と呼ばれるようになりました。

この明智光秀は、織田家に仕えるまでの間の人生が余りはっきりとしていません。

織田信長の正室である帰蝶と従兄弟であったという説もありますが、詳しいことは分かっていないのです。

明智光秀と天海は同一人物説

この明智光秀は、山崎の戦いで負けて、坂も途上に逃亡する途中に落ち武者狩りに遭い討ち死にしているという説が一般的なのですが、逸話があります。

このとき殺されたのは影武者であり、明智光秀は生き延びていて、後に天海として徳川家康に仕えたという説が昔からあったのです。

天海は、黒衣の宰相と呼ばれているほど、徳川幕府の政治にも関与していたといわれていますし、徳川家の菩提寺である寛永寺を建てたのも天海だといわれています。

この天海も、半生が明らかになっておらず、謎の人物になっています。

ただし、明智光秀は徳川家康よりも一回りは年上になっており、徳川家康の死後も徳川幕府と関わっていたことを考えると、死んだのは100歳を超えていた計算になります。

天海を光秀と結びつける根拠

天海を光秀と結びつける根拠というのはいくつかあります。

まず、天海は日光東照宮の建立にも携わっているのですが、日光東照宮に明智家の家紋である桔梗の紋が彫られていること、そして、天海が比叡山にある松禅寺に石灯篭を建立しているのですが、この灯篭に「寄進願主光秀」と書かれているのです。

江戸時代の頃から、光秀は山崎の戦で死なずに天海として家康に近づいたという説があるのです。