勇敢な戦国武将たち

悪御所と人望が無かった足利義教

足利将軍家の第三代将軍義満の子として生まれたのが、のちの第六代将軍となる義教です。

義教は第四代将軍である義持の同母弟でもあります。義持は36歳の若さで息子の義量に将軍の座を譲り渡しますが、義量は生来の病弱で就任後2年も持たずに他界してしまいます。

その後は第四代将軍である義持が政治を行いますが、自らが危篤となっても後継者を指名しなかったため、義持の弟である義昭・義隆・義円・義承の4名が将軍候補となり、家臣たちの意見を集約した結果石清水八幡宮のくじ引きによって将軍を決めることになります。

このようにして生まれたのが当時は義円と名乗っていた六代目将軍の義教です。

義教は中央集権と関東平定に尽力し、永享の乱では鎌倉公方足利持氏を自殺に追い込み、また持氏の遺児や一色義貫、土岐持頼を誅殺。弱体化が進んでいた室町幕府の勢力を盛り返すために、強烈な中央集権化を進めていきます。

しかし次のターゲットと見られた赤松満祐に先手を取られ、だまし討ちにあって最後を遂げたのです。義教の死後、討伐軍が組織され赤松氏も滅亡しました。

義教は非常に苛烈な性格であったと伝わっています。このため付いたあだ名は「悪御所」

些細なことを理由に周囲の人間に辛く当たったらしく、数々の逸話が残っています。

このため義教がだまし討ちにあった後、なかなか討伐軍が組織されなかったのは、義教の性格がそのようなものであったため、誰からも愛されていなかったためだとも言われています。