教養に優れた英雄

平民宰相と期待された原敬

原敬は後に平民宰相と呼ばれることになりますが、生まれながらの平民というわけではありません。

祖父は、東北の南部藩家老を勤めるほどの実力者でしたし、父親も南部藩の重役として権力がありました。

ですので、実際のところは、原敬は名家といえる家柄だったのです。

原敬が平民になったのは、20歳のときに分家として独立をしたからです。

その後、原敬は新聞記者として新聞社に勤めるのですが、その後政治家に転身します。

そして、大正7年に内閣総理大臣だった寺内正毅氏が辞任したため、後継者として内閣総理大臣に就任します。

ちなみに、以前から日本では選挙制が取り入れられていましたが、当時は元・長州藩や薩摩藩などの出身者が内閣総理大臣に就任しており、原敬が初めて政党内閣として就任したのです。

平民出身ということで、世間も平民宰相として期待をするようになり、支持率も非常に高くなりました。

当時、第一次世界大戦が終了し、階級に対しての追及もかなり厳しくなっていたため、原敬率いる政友会の勢力もさらに拡大されました。

ですが、権力によって政治が行われ、アヘン事件や満鉄事件などといった色々な事件が行われるようになり、原敬内閣に対して、国民も不満を募らせていきます。

その結果、原敬は、政友会の集まりが京都で行われるため、東京駅に行った際に、視察されてしまいました。

勘違いによって暗殺された

原敬を暗殺した犯人は駅員として働いていた中岡良一という人物でした。

中岡良一は、政治に対して不満を持つようになり、内閣総理大臣である原敬の暗殺を決断したといわれています。

このとき、中岡良一だけではなく、勤めていた駅の直属の上司である橋本英五郎も逮捕されています。

暗殺事件が起きる1ヶ月ほど前に、橋本が、昔であれば腹を実際に切っていたものだと語っていたところ、中岡は原を切るといっているのだと勘違いをし、私がやるといって、原敬を暗殺したのだといわれています。

当初は、橋本は殺人教唆によって逮捕されましたが、そのような事実はなかったと、橋本だけではなく中岡も供述したため、橋本は後日無罪で釈放されています。