教養に優れた英雄

安政の大獄と井伊家の名を残した井伊直弼

徳川幕府の名門である井伊家の居城である彦根城に、文化十二年生まれたのが井伊直弼です。

直弼は父である藩主井伊直中の14男に過ぎない存在であり、30代の前半までは部屋住みの厄介者として過ごします。しかし兄弟に庶子が多かったことや世子の早逝などもあり、36歳のときに彦根藩主となりました。

藩主となった直弼は、次々と藩政改革を断行。この功績と徳川幕府の重臣の家柄から江戸城での発言が重みを増していきました。特に将軍家の後継問題や日米修好通商条約の調印に関する件で、その立場を揺るぎないものにしたと言われています。

そして迎えた安政五年に、ついに幕府の最高職である大老に就任したのです。

大老となった直弼は、日米修好通商条約に調印し、また14代将軍として徳川慶福を就任させたのです。

しかし日米修好通商条約は勅許が無いまま調印したこと。更に徳川慶福の将軍就任を強行したことから多くの政敵を生み出します。

直弼はこれらの政敵を安政の大獄で粛清してしまいます。しかし世間からは独裁政治とみなされ、また政敵からの大きな怨嗟を受けることになりました。

そして迎えた万延元年の春に直弼は、江戸城に登城中に暗殺され一生を終えました。これが俗に言う桜田門外の変です。

桜田門外の変で、直弼を首をとった人物が直弼の首を抱えたまま遠藤但馬守の家の前で自決してしまいました。

遠藤家では仕方なく直弼の首を宅内に収めますが、井伊家はそれを知らずに大混乱となりました。

当時は大名が跡目を相続しないまま亡くなったり、横死した場合は家名断絶となるルールがあったためです。

幸い遠藤家から直弼の首を受け取ることに成功した井伊家は、死んでいる直弼の胴体と首を接合し「負傷したから療養中である」ということにして家名を相続させたのです。