教養に優れた英雄

伊能忠敬が作成した地図は世界でも評価された

地図の作成を行うまでの足跡

伊能忠敬は上野国で生まれ、17歳のときに婿として当時商家だった伊能家に入りました。

元々秀才だった伊能忠敬の手腕によって、経営不振になっていた伊能家は持ち直し、地元では名家の一員になったのです。

そして、50歳のときに隠居をして、息子に店を託した後は、自分の学力を高めるために江戸に向かいます。

江戸幕府天文方で働いていた高橋至時に弟子入りし、天文学を学ぶのですが、まだ上野にいた頃も、独学で数学などの勉強をしていました。

天文学に関する知識もかなりのスピードで学んでいったといわれています。

さらに天文学だけではなく、測量学も同時に学び、56歳のときに、幕府から許可をもらって、日本の測量をするためにまずは蝦夷に向かい測量をします。

その後も10回にわたる測量の旅をして、合計3737日、走行距離4万キロという時間と距離をかけて日本の国土の測量をしていったのです。

途中で病によって伊能忠敬は死去してしまいますが、その後も弟子たちによって測量が行われ、大日本沿海興地全図を完成させることができたのです。

外国人が舌を巻くほどの正確さ

その頃、車輪1周でどれくらい進むのかなどを計算して測量をするという方法がありましたが、砂や地面の状態が悪いと正確に測定をすることができませんでした。

そのため、伊能忠敬は歩幅で測量をしていたといわれています。

しかも測量の正確さは非常に高く、黒船来航後に、外国人が日本の測量を行った際に、伊能忠敬が作成した地図を提供したところ、その精度の高さに外国人も舌を巻いたといわれています。