教養に優れた英雄

頑固で清貧を好んだ人柄の板垣退助

江戸時代末期の土佐藩に上士の子として生まれたのが自由民権運動家として著名な板垣退助です。

板垣の家は戦国時代に武田家の重臣だった板垣信方の子孫と言われています。当時は「乾」と名乗っていましたが、戊辰戦争時に士気を高めるために「板垣」姓に戻しました。

板垣は幕末の混乱期に土佐藩の重臣として活躍。戊辰戦争時には、明治新政府軍を率いて、主に東北戦争にて大きな軍功を挙げました。結果、明治政府においては政治の中心にあって要職を歴任していきます。

しかし明治六年に征韓論を主張するも、岩倉具視らの謀略によって潰されたしまいこれを機に下野します。

そして政治のあり方は国民の意見を聞くべきだとし、出生地である土佐にて立志社を結成します。

その後明治十四年に帝国議会の設立に関する詔がだされたことを契機に、日本における最初の政党となる自由党を結成し総理となりました。

その翌年、遊説中に暴漢に襲われて負傷しますが、このとき負傷しながら「板垣死すとも自由は死せず」と語り、現在まで板垣の名言として伝わっています。

帝国議会の設立後は、愛国公党・自由党・憲政党などの立場で政治に尽力。明治三十三年の立憲政友会の設立を機に政治の一線から姿を消しました。

板垣は政界から引退後も、政治の近くに身を起き社会運動家として活動を続けました。

機関紙の発行や若い世代が作った政党の相談役就任などです。一方で元々の頑固な性格と、欲がなく清貧を好んだ面が強くあり、晩年は経済面などで苦労したと伝わっています。