勇敢な戦国武将たち

若くして病死した小早川秀秋の無念

小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室である寧々の甥として木下家に生まれました。

子供の頃に、当時子供がいなかった豊臣家の養子となるものの、後日、全国に知られていた智将・小早川隆景の養子になります。

実は、小早川秀秋は毛利宗家の養子として秀吉が送り込もうとしていて、それに気づいた隆景が小早川家で引き取ったという説もあります。

小早川隆景の養子として、13歳で筑前(現在の福岡県)の大名となります。

朝鮮出兵の失態

その後、慶長2年の朝鮮出兵では予備隊大将を秀吉から任されて朝鮮に渡り、武功を立てるのですが、女子供にも手をかけたり、当時の日本軍の生命線である釜山が手薄になったことで秀吉の逆鱗に触れ、後日筑前の領地を没収されて越前に移されてしまいます。

このとき、徳川家康が豊臣秀吉に働きかけたことによって、旧領に戻ることができたのですが、このときに家康に恩を感じるようになったのではないかといわれています。

また、朝鮮出兵の際に、石田三成と確執が生まれたといわれており、これが後の関が原の戦いの運命を分けたのかもしれません。

ちなみに関が原の戦いでは、西軍としてついていますが、実は小早川秀秋は東軍に属するつもりだったようです。

しかし、関が原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで、伏見城に入り、鳥居元忠と合流しようとしたものの、鳥居元忠に入場を拒否されたといわれています。

そして、関が原の戦いでは、東軍と西軍を見渡せる松尾山に着陣しますが、高みの見物を決め込みます。

内通の約束をしていた家康の要請にも応じず、三成から戦いの参加を求められても、行動をしなかった結果、家康が激怒をし、松尾山に一斉射撃をした結果、東軍に寝返り、西軍の横っ腹を付くような形で突撃をして、東軍の勝利に貢献しました。

関が原の戦いで決定的な結果をもたらしたということで、美作・備前2カ国を加増され、岡山城主として、内政にも力を入れていたのですが、土壇場で裏切ったということで世間からの評価はとても低かったようです。

さらに短気ですぐにわれを見失ってしまい、家臣を切り殺したりするといった行動までしていたため、内外から非難を浴び、多くの家臣たちが小早川家から去りました。

そして、21歳にして小早川秀秋は病死をし、跡継ぎがいなかったため、小早川家もお家取り潰しになったのです。