誰もが知っている英雄

来歴と天保の改革の水野忠邦

徳川家の譜代家臣であり名門の家に生まれた水野忠邦は、父親の隠居によって僅か18歳で唐津藩の藩主となりました。

ただこの忠邦は元来出世に対しての欲が強かったようで、多くの金品を用いて猟官運動をしたことでも知られています。

天保五年にはその甲斐あって老中に昇格します。

当時は天保の大飢饉やそれに伴う一揆の多発。更にモリソン号事件や日本の海防に対する不安が大きくなりつつあり非常に難しい時代でした。

しかし将軍家は徳川家斉の大御所政治が続いていたため、世情を顧みずに贅沢で放漫な経営をしていたのです。

忠邦は家斉が死去すると、自らの腹心を集めて天保の改革に乗り出します。

その内容は綱紀粛正と奢侈禁止を強いるものでした。

特に農村地区の人が江戸へ出てきてしまって人が少なくなる状況を是正するため人返し令を出したり、便利の良い土地を幕府領として召し上げ、代わりに遠くの天領を与える上知令などは、大名や武士はもちろんのこと、農民や町民からも大反発を受けることになります。

このようにして忠邦の始めた天保の改革は、僅か数年で幕を閉じるのです。

直後、忠邦は老中職を罷免されて失脚します。

しかし再び忠邦は老中職へ返り咲きます。

それは罷免された翌年、アヘン戦争に絡む外交処理が必要になり、忠邦の外交能力が必要となったためでした。

しかし天保の改革の失敗とその結果としての罷免は忠邦をもぬけの殻にしていたようです。

老中職への再着任後僅かな期間で自ら老中職を辞するのです。

その後、忠邦は天保の改革の責任を問われて隠居と蟄居を命じられます。

こうして忠邦は歴史の表舞台から去ったのでした。