勇敢な戦国武将たち

三本の矢を与えた猛将の毛利元就

毛利元就は、元々は2万石くらいの小豪族の次男として生まれました。

そして、大内や尼子などといった大名を撃破していき、中国地方全域と四国の一部、九州の一部にまで領土を拡大した謀将でもあります。

その反面、三本の矢の喩えを使い、子供たちに兄弟で力を合わせるようにと説いています。

そして、その三人の子供たちは、兄弟と協力し合って、毛利家の発展に尽力するという話です。

この三本の矢の話は、毛利元就が死ぬ直前に三人の子供に説いたといわれているのですが、後の創作ではないかという説が濃厚です。
ただ、実際に子供たちに色々な教訓を残しているのは事実です。

毛利元就は61歳になったとき、自分の子供たちに、14か条ある教訓状を記しています。

そして、その中の5除までは兄弟で結束していくように書いているのです。

この教訓状を基にして、三本の矢の話が後に作られたのではないかといわれています。

そして、子供たちも、毛利元就の死去後、当主になった輝元を守り立てて、毛利家の発展に力を入れたのです。

三本の矢は腑に落ちない部分もある

毛利元就は、元亀2年に死去したのですが、その8年前に嫡男である毛利隆元が病死をしています。

臨終の間際に3人の子供に三本の矢の話をしたという話は矛盾点があるのです。

さらに教訓状は弘治3年に認められたものですが、この頃には、元春は吉川家に養子に入っていますし、同様に隆景も小早川家の養子になっています。

また、毛利元就の子供は、この他にも何人もいますから、三本の矢の話は腑に落ちない点がいくつもあるのです。