戦乱の時代

為政者の圧政によって引き起こされた島原の乱

松倉氏による圧政と弾圧

肥後や肥前というのは、安土桃山時代には、キリシタン大名である有馬氏や小西氏によって治められていたため、キリスト教の信者も多かったのですが、豊臣秀吉によってキリスト教禁止令が制定されて、キリシタンは隠れて信仰をしていました。

さらに徳川幕府でもキリシタンは禁止になっていたのですが、領主である松倉氏がキリシタン狩りを断行します。

また、松倉氏は農民に対しても圧政を強いており、他の半と比べて多くの年貢を納めさせ、年貢を納めない農民は処刑にしていたのです。

天草四郎時貞による島原の乱

キリシタンや周辺の農民たちが結束し一揆を起こしたのが島原の乱です。

このとき、若干16歳にして神の子といわれていた天草四郎時貞を大将とし、松倉氏に対して攻勢を仕掛けます。

松倉藩だけでは地夏をすることが出来なかったため、周辺の藩に援軍を要請しましたが、幕府から許されなければ援軍を出すことは出来ないと拒否します。

松倉氏は、年貢を不正に取り立てたり、虐殺したことが公になれば、お家取り潰しになりかねないと判断し、農民が参加をしていることは隠し、禁じられているキリシタンの信徒が反乱を起こしたのだと情報操作をします。

その後、天草四郎率いる一揆軍は、周辺の農民なども取り込んでいき、4万という大軍になったことで、このままだと事態が悪化すると判断した幕府が討伐軍を島原に送り鎮圧をしたのです。

天草四郎時貞について

天草四郎時貞は、小西行長家臣の益田甚兵衛だったといわれています。

そして、天草四郎時貞は、まだ文字について知らないときから、聖書を読んだり、色々な不可思議な現象を起こしたりして、神の子だと称されるようになりました。

そのため、キリシタンや周辺の農民たちの大将を任されるようにあったといわれているのですが、天草四郎時貞だけではなく、一揆軍の資料はことごとく残っていないため、詳しい経緯は分かっていません。