勇敢な戦国武将たち

地方豪族からのし上がった平将門

平将門は兵士一門でしたが、下総の地方豪族に過ぎませんでした。

叔父である平国香と亡き父の遺領争いを何度もしており、長い間決着をつけることはできませんでした。

平将門は叔父と争うだけではなく、近隣の豪族に対しても攻撃を仕掛けていきます。
下総の国境を越えて、常陸にある国衛を襲撃し、鍵と国印を奪います。

この国衛とはどのようなものなのかというと、税金として収められた倉の番人をする役割です。
つまり、国から任せられている役人を襲撃したわけですから、当時の朝廷に対して謀反をしたのと同じことです。

その後も、平将門は国境を越えて、上野や下野の国衛も襲撃をしていき、関東8カ国を領土として拡大をします。
そして、独断で自分の家臣や親族を国主に置き、統治をしていったのです。
その結果、東国に一大王国を築き、平将門自身は新皇と名乗るようになりました。

あきらかに朝廷に対して敵対をしたのですから、朝廷も黙っていません。
当時、関東では平将門が領土拡大をしていましたし、瀬戸内海でも藤原純友が朝廷に反旗を翻していました。

同時期に東西で反乱が起きていたため、藤原純友と平将門は同盟を結び、最終的に都に来るという危機感を持ちます。
そして、ただちに平将門を討つべく、藤原忠文を討伐軍の大将に任命し、東征をしていきます。
これが後の平将門の乱です。

朝廷軍に対して、平将門も積極的に攻撃を仕掛けていましたが、矢が頭に刺さって討ち死にをして平定されたのです。

怨霊伝説の始まり

平将門は、その後、いくつもの神社に祭られており、神格化されているのですが、その反面、怨霊伝説もあります。
現在、東京に平将門の首塚がある神田明神がありますが、元々、この地に首塚はなかったといわれています。
討ち死にをした後、京都に首が送られたのですが、その後、首は自らの意思で飛んで関東に移動をし、現在、首塚がある地に落ちたといわれています。

また、太平洋戦争後の都市開発で、GHQが首塚を壊そうとしたところ、不可解な事故などによって多くの人が怪我をしたり不審死をしたため、GHQも平将門の首塚の撤去を断念したと言われており、当時新聞でも取り上げられました。