勇敢な戦国武将たち

徳川幕府の礎を築いた徳川秀忠

徳川幕府の2代将軍である徳川秀忠は、徳川家康の三男ですが、跡継ぎとして徳川家を継ぐことになりました。

本来であれば、長男である松平信康が徳川家を継ぐ予定だったのですが、内通の疑いで自刃させられ、次男である秀康は、一度豊臣秀吉の養子になった後、関東の名家である結城家に養子として出されています。

そのため、三男である秀忠が徳川家を継いだのです。

ただし、秀忠は武将としては優秀ではなく、戦は非常に下手だったといわれています。

特に天下分け目の戦いである関が原の戦いでは、信州・上田攻めに固執をしてしまい、何日も城攻めをしてしまった結果、関が原の戦いには間に合わず、家康を激怒させる失態を演じてしまいます。

ただ、関が原の戦いに間に合わないのは、元々打ち合わせ済みで、徳川本隊の戦力の温存をしていたという説もあります。

将軍になってからの功績

1605年に、家康から征夷大将軍を任されることになりますが、家康存命中は家康が実験を握っていました。

しかし、秀忠自身が何もしていなかったわけではなく、内政に力を入れています。

そして、家康の死後は、徳川幕府の土台を作り出し、不穏物資を取り除いて、250年の太平の世を作り上げていったのです。

そのため、武将としての秀忠は評価されていませんが、政治家としての手腕は歴史学者などの間でも高い評価を受けています。