教養に優れた英雄

来歴と松下村塾の吉田松陰

元号が文政から天保へ変わる直前に長州藩士の子として生まれた吉田松陰は、叔父が開設した松下村塾で学ぶなか、藩主毛利慶親の前で行った講義の見事さから、その才能が認められるようになりました。

しかし自らが幼いころから学んできた山鹿流兵学が、時代に通用しなくなっていることを知り、西洋の兵学を学ぶために諸国へ遊学し、更に江戸へ出て佐久間象山に師事します。

その後、脱藩のために士籍剥奪の処分を受けた吉田松陰は、嘉永六年のペリー来航に大きな衝撃を受けて外国留学の夢をみます。しかし船への乗船に失敗。翌年再び現れたペリー艦隊をみて今度は密航を企てますが失敗してしまいます。

松陰は、この時の罪が元で伝馬町の牢獄に入れられ、更に荻に幽閉されます。その後は生家の方に預けられるという形になりますが、このとき叔父の松下村塾を継ぐ形で近隣の子弟を相手に兵学を教えるようになりました。

この時の門下生から明治維新の原動力となる多くの人材が輩出されたのです。具体的な名前を挙げると、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋といったところが有名所でしょう。この他にも多くの著名な人材を輩出したのです。

また松蔭の松下村塾の特徴は、身分や階級といったことに囚われず学ぶ意欲を持った人ならば誰でも受け入れたことでした。このため農民や武士といったものに囚われず多くの若者を惹きつけることになったのです。

その思想の過激さ故に

松蔭の評価は難しい部分があります。ただハッキリ言えるのは過激な思想の持ち主だったということでは無いでしょうか。松蔭はこのままでは国がダメになると考え、松下村塾の塾生たちに今で言うテロ行為を呼びかけるようになります。

しかしこのことが長州藩の耳に入り再び伝馬町の牢獄に送られることになるのです。そして取り調べを受けた松蔭は、老中の暗殺計画を自供してしまい、わずかに30歳という若さでこの世を去りました。